【連載】研究者の履歴書〜それぞれの⼤学院時代〜 第1回 山本嘉孝さん(国文学研究資料館研究部准教授)

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第1回
山本嘉孝さん(国文学研究資料館研究部准教授)

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プロフィール
山本嘉孝(やまもと・よしたか)
1985年、兵庫県に生まれる。2008年、ハーヴァード大学学士課程卒業(比較文学専攻)。2016年、東京大学大学院総合文化研究科(比較文学比較文化分野)博士課程単位取得退学。大阪大学大学院文学研究科(日本文学専門分野)講師を経て、現在、国文学研究資料館研究部准教授、総合研究大学院大学准教授、博士(学術)。「山本北山の技芸論―擬古詩文批判の射程―」(『近世文藝』99巻、2014年)にて第10回日本近世文学会賞受賞。著書に『詩文と経世―幕府儒臣の十八世紀』(名古屋大学出版会、2021年)などがある。

聞き手
・岡田貴憲(九州大学大学院人文科学研究院准教授)
・松本 大(関西大学大学院文学部准教授)
・文学通信編集部
→聞き手のプロフィールはこちら




挫折──会社勤め、しかし7カ月で退社

岡田:山本先生にトップバッターでご登場いただくことになりました。まずご専門とこれまでのご経歴をお伺いしたいです。
山本:専門は日本漢文学です。時代は江戸時代から明治時代までということでやっております。東京大学で修士課程と博士課程を修了したのち、大阪大学文学部に専任講師として着任し、3年間お世話になったのち、現在は国文学研究資料館准教授です。
文学通信:一度アメリカの一般企業にお勤めになったんでしたよね。
山本:はい、そうです。ちょっと寄り道をいろいろしました。大学在学中に、会社勤めをしてみたいと思ったんですね。学部では、専攻は比較文学だったので、それに直結するようなビジネスですとか、そういう企業っていうのがなかったんですけれど、たまたまアメリカの大学に通っていて、アメリカの学部ですと、わりと専門は関係なくいろんな分野に就職したりしています。大学院も単位などが足りていれば全く別の分野の大学院に進むっていうケースもあります。そういう環境もあったので、ちょっとできないかもしれないなと思いつつも、投資銀行に就職することにしまして。
そこはアメリカの企業の日本支社というような感じでした。職場の環境はわりと日本的ではあったんです。ただ、その仕事にはあまり関心がどうしても持てずにいて、大学にやった時の勉強に戻りたいと思いました。
岡田:なるほど。
山本:その時は、かなり悩んだり焦ったりしました。ただアメリカの大学を卒業した周りの先輩を見ていると、わりと1年とか2年で最初に就職した会社を辞めて大学院に進学したりしていました。「学校に戻る」というような言い方があるんですけれども、一般的な進路として、1回就職して大学院に行くっていうのはスタンダードなもので。私もそれをモデルにして考えたということです。
文学通信:以前拝読させていただいたインタビューでは(https://www.tamatebakonet.jp/monthly/detail/id=15072)、挫折という言い方で退職を振り返っていらっしゃいました。
山本:そうですね、まさに。自分の思い描いてた理想では、1~2年非常に充実した生活というか新しい経験をどんどん身に付けていって円満に、かつ、いろいろな新しい知識をポジティブな環境で積んでいけるかなと思っていたんですけれど、そうはなりませんでした。
中学の頃は日本にいたんですけれども、部活みたいなものは避けてきた人間だったので、全く上下関係を知らずに来たということと、逆にそういうのに非常に嫌悪感があったんです。そういうことで、もう1日目からうまくいかない。いろいろ歯車がまわっていかないのがすぐわかって。そういうこともあって、経験を積むとか以前の問題で、なじめないというか、うまく人間関係を構築できないということがあったりしたんです。
その間、大学院に行きたいな、と思っていたんですけども、分野がわからなくて。岡田先生や松本先生からすると信じられないという感じかもしれないですが、何を専門にしていいかわからないっていう状態だったんです。
比較文学を学部でやっていたということも関係してると思うんですが、私自身はもともと英語圏やフランス語圏の20世紀の文学を学部の時にやっていて、大学院でもやろうと思っていたんです。
そのつもりで本を読んだり、アメリカのほうの先生に相談したりしていたんですけども、どうしても自分の興味が向いていかなかったり、能力的な問題ももちろんあるんですけれども、英語もフランス語もそんなに研究がちゃんとできるっていうことではなかっといいますか。特にフランス語は本当に全然しっかりとは身に付けられないまま来てしまっていたんですけども、そういうこともあり、専門がわからない。どういう大学院に進めばいいかもわからない状態だったので、もう行き止まりみたいな感じで。それを挫折と一応呼んでいた、ということでした。
文学通信:なるほど。
山本:それで、自分から退社して「辞めます」と言って。行き先もないのに辞めたんです。行き先があるかのように装って辞めたんです。なんか悲しかったんですけど(笑)。

大学院に行きたい──しかしどの分野かわからない

岡田:その当時は、何をやればいいかわからないけれども研究はしたい、というお気持ちがあったんでしょうか。
山本:一応あったんですけれども、それもでも本当にそうなのかわからないし、付きたい先生もいないという感じでした。学部時代に習った先生たちはちょっと違うような感じで。すごくいい先生たちだったんですが、お互いにと言いますか、何か違うというのがわかったと思うんです。
岡田:そこから急に漢文学というのは、かなり方向転換のように見えます。
山本:そうですね。なので両親は何をやってるんだと思ったと思いますし、きつい言葉になってしまうんですけれども、「あなたは貴族じゃないんだから」って言われたことがあるんです。ずっと進路を定めないまま漂ってるみたいな感じで。その時まだ、と言っても23とか24になっていたんですかね。
学部を卒業してから大学院に入学するまで2年間。その期間に漢文学に関心が向いていくことになるんですが、自分がどこを向いていいかわからない2年間でした。方向性が本当にわからない時間を過ごしたという感じでした。
文学通信:でも、その2年間は山本さんにとって、とても大事な時期だったんですね。
山本:そうですね。その間何をしてたかっていうと、7カ月間は会社勤めをしていて、もう半年ぐらいは塾で教えたりしてたんです。その時に、教えることは初めてに近かったんですけれども、すごく魅力的だなというか。一対一の授業だったんですよ。講義とかとは全然違うというか。そこから教えられるような立場になったらいいのかなっていうことも思いましたし、あとこの期間いろんな本を読む中で、後でもちょっと出てくるからもしれないですけど、中村真一郎という昭和の作家・評論家の『江戸漢詩』(岩波書店、1985年。同時代ライブラリー)という本があるんですけれども、それを読んだりですとか。
もっと難しい本には、『頼山陽とその時代』(中央公論社、1971年。ちくま学芸文庫)とか『木村蒹葭堂のサロン』(新潮社、2000年)とか分厚い本があるんですが、そのあたりは一応手には取りましたが、とても理解はできなかったんですけれども、『江戸漢詩』はわりとわかりやすく書かれていました。
なぜ中村真一郎を手に取ったかというと、20世紀のフランス文学も一応大学院に進もうかなと思っていた候補の分野の一つだったので、プルーストはどうかなと思っていたんです。大学の時、授業を一つだけ取っただけのことなんですが。日本ではどういうプルースト研究があるのかなと思って調べていたら、中村真一郎がプルーストについて書いていた文章がありまして(★注1)。
それで芋づる式に、中村真一郎が他にも日本文学についても書いてるらしいっていうことがわかったので、比較文学をやってましたし大学院でもやりたいと思っていたので、これはもう格好の素材を見つけたと言いますか。実は中村真一郎を研究したくてキャンベル先生のゼミに入りました。江戸時代のことは全然正面から研究すると思ってなくて入ったんです。そんな形で中村真一郎という人に、著者に出会ったということです。すごく大事な期間でした。アメリカにいた時には出会えなかったでしょうし、いろいろ迷ったから出会ったということが言えると思います。

★注1 中村真一郎「プルーストの小さな肖像」(『中村真一郎評論全集』〔河出書房新社、1972年〕所収、初出『文學界』第5巻9号〔1951年9月〕)など

一生やってみたい、一生あっても時間が足りない

岡田:日本の古典をやるために大学院に進んだわけではない、ということですね。
山本:ではないです、当初は。恐ろしいんですけれども。というか、大学院に入ってから、キャンベル先生から、中村真一郎は後からやったほうがいいんじゃないかということを指導いただきました。まずは江戸時代だろうと。中村真一郎の著述は、研究というよりは評論なんですけれども、評論を対象とするにもまずは江戸時代の漢詩文自体をちゃんと理解できるようにならないといけないという指導をいただきまして、それは本当にそのとおりだなとその時も思いましたし今も思います。そういうことで、やっと修士1年目ぐらいで方向転換を初めてしたということになります。
岡田:学部の時から、就職はするけれども、ある程度、何か学術的な興味みたいなものが芽生えていたところはあったのでしょうか?
山本:ありました。ただ身の回りには、アメリカの近現代文学研究者というモデルしかなかったんです。手本がなかったというか。私が習った先生たちは評論家みたいな先生が半分ぐらいですね。あるいは、作家活動というか小説を書いてらっしゃる方もいらっしゃったりとか。あとは歴史的な史料を使いながら研究されてる先生もいらっしゃったんですけども、現代の小説家と仲がよかったりとか。
そのような環境にいたので、日本の古典の研究者とは違うと思うんです。アメリカの研究者は、評論家とか作家みたいな人たちがいる世界の中で、大学で勤めている、教育に携わっている人っていうようなイメージがあって、私はそれはちょっと違うかなと思っていました。興味はあるんだけども、それしか自分にはない、みたいなふうには思えなかったというか。
学部では古典研究には触れたことがなかったんです。古典に対しては怖いイメージがありました。古典の研究者になりたいなって思ったのは、本当にお恥ずかしいんですけど、修士課程に入ってからだったと思います。そこで初めてロバート・キャンベル先生や齋藤希史先生の授業をたくさん受けたんです。キャンベル先生と齋藤先生の授業では、いわゆる注釈の方法を習いました。本文を読み解くための用例を探して、同時代の資料を大量にコピーして、該当箇所を切り貼りをしたりしていました。当時はデジタル画像もあまりなかったと思います。
例えば江戸時代の書物を読み解く授業だと、生活様式とか当時の例えば食べ物が何だったかとか、そういうものを随筆から持ってきたりとか。挿絵がある資料から持ってきたり。そういうのを初めて修士課程で経験して、これは一生やってみたいなとそこで初めて思いました。一生あっても時間が足りないし、膨大な資料があるし、キリがないし、とても価値があるというか。それは新しい知識をつくっていくものだと思ったんです。誰も興味を示さないかもしれないとか、それはちょっと置いといて、でも新しい知見がやっぱり開かれていくっていうのを初めて見て体感できたんです。
アメリカで受けた学部の授業は、同じような話をみんな繰り返している感じがありました。評論に近いので、本当に感想文になってしまっていました。一般受けはいいんですよね、そっちのほうが。けれども、自分には一生やっていく仕事としては考えられませんでした。
岡田:たまたま漢詩文に出会って、それが肌に合ったという感じですか。
山本:確かにおっしゃるとおりで、例えば和歌とか和文ではなかったということは大きいと思います。
もともと比較文学を学部でやった理由も、母語ではない言葉で読み書きすることがどういうことか、ということを考えたかったからだったということがあります。外国語で読み書きすることはどういうことか、という問題ですね。あるいは外国語とは言えないけれども、普段使っている話し言葉としての母語とは違う言葉で読み書きすることに興味があったんです。
漢詩文は、中国でも実は話し言葉とかなり差があります。なので母語とは違う言葉で読み書きすると言えるかもしれないですけど、まして特に日本、そしてもちろん朝鮮、琉球、ベトナムの場合ですと、母語とは違う言葉で読み書きするという側面が漢詩文の場合強く、そこでまず、こんなに面白い書き言葉がこういう面白い形で広がっていた歴史があった、ということに惹かれました。そういった位置付けにあった書き言葉に太い伝統がある、ということを知って驚きました。
それまでは何となく外国語で読み書きすることとか、母語でない言葉で読み書きすることについて、マイノリティーがすることみたいなイメージがあったんですよね。自分が外国に引っ越して、そこで外国語で新しい生活をしながら、その外国語で読み書きをするとか、あるいは自国であってもマイノリティーの人は、みんながしゃべってるのとは違う言葉で読み書きするっていうイメージがあったんですけれども、漢詩文の場合、もちろん人数的にはマイノリティーかもしれないんですが、でも文化的な位置付けで言うと非常に中心的な、すごく発信力のあると言いますか影響力のある中心的な書き言葉として機能していたということがあって、本当に面白いなと思ったんです。でもそれも修士課程に入ってから、そういうことを初めて本当に理解し始めたというようなことでした。
岡田:それってなんか必然だったような感じがしますよね。もともと山本さん自身が単身アメリカに渡られて、マイノリティーとして......。
山本:そうですね。
岡田:そういったもともとの関心がおのずと漢詩文に結び付いていくというのが、今初めて伺ってわかりました。
山本:外国語を使って何かをするとか、そういうことへの興味が大きかったと思います。もちろん日本の場合、漢詩文は完全に外国語とも言えない部分があります。それは訓読があるからなんですけれども。でも、文法は外国の文法ですし、語彙(ごい)も外国のものなので、そこはやはり母語では全然ないというか、母語とは距離がある言葉なので、そこはいつも興味があるところです。研究の中でそれを追いかけてるかというと、そうでもないんですけれども。別に例えば和習の問題にピンポイントで興味があるわけではないんですが、でもそういう言葉を読み書きしていた人たちの営み全体についてはすごく興味があります。

研究室と大学院の雰囲気──開かれた場所

岡田:ありがとうございました。このインタビューはそれぞれの大学院時代というサブタイトルが付いているので、その辺も伺っていきたいと思います。ご所属されていたキャンベル先生の研究室とか、大学院の雰囲気はどういった感じだったか教えていただけますでしょうか。
山本:私が所属していたキャンベル先生のゼミがあった研究室は、比較文学比較文化研究室という名前だったんですね。比較文学だからそこに行こうと思ったということもあります。本当にさまざまな専門の先生たちと学生がいました。私だと、いわゆる日本文学とか国文学の研究室だと、そもそも入試に合格してないと思うんです。ちゃんとした研究手法を積み重ねてきていない状態でもあって、自分自身も日本文学をやろうというよりは比較文学をやろうと思って入っていたので。
そういうつもりで入ってみてどうだったかというと、非常に肌に合ったという感じでした。いろんな文化や言語を対象に研究している先生たちや大学院生、学部生がいて、でもそれぞれの専門が非常にはっきりはしていて、何でもかんでもやるっていうことでは全然なかったんです。専門性が高いということがいいことだとされていた場所でもあったので、こういうのを探してたと思ったんです、入学した時に。入る前からも思ってはいたんですけど。
比較文学比較文化というところに所属はしていたんですけれども、東大にはキャンパスがいくつかありまして、私がいたのは駒場キャンパスと言って学部1~2年生がいるところなんです。教養学部があるところで、ちょっと新しくできた場所みたいな雰囲気がありました。私にとってはそれがすごくありがたくて。私みたいに外から入ってきた人間でもすぐ溶け込めるっていうような場所に感じました。学部生も、全国から集まっている学部生が、最初に集まってる場所っていう感じでしたし。
もう一つある本郷キャンパスという古くからあるキャンパスは、例えば国文学とかそちらにあるんですけれども、東大の場合、そこはすごく伝統があって、私のような外から来た人間には、今もですけど非常に敷居が高く感じるというか、入りにくい。駒場の場合は全くそういうことがなくて、先生たちも東大出身の先生が少ないくらいというか、私のすぐ周りにはそんなにいらっしゃらなかったイメージがあって。比較文学っていうこともあって、非常に開かれたというか、いろんな人が集まって、いろんなことをやってる場所だったので、すごくありがたかったです。
ただ同時に、先ほど申し上げたように専門性も非常に重視をされていたので、結果的にはそれがすごくありがたいことでした。日本文学とか中国文学の研究室にいるよりは全く薄い内容だったかもしれないとは思うんですけども、ただ一応自分が見ている時代、江戸時代のここっていうような感じでいうと、結果的には国文学と漢文学の専門的な勉強がすごくできたかなと思います。
岡田:いろんなご専門の先生がいらっしゃって、それぞれ学生も専門がばらばらなわけですよね。その中で同じジャンル、近いジャンルを研究するような間柄の、例えば先輩後輩だったりという人はいらっしゃいましたか。
山本:そうですね。それはちょうどいい数と言いますか、たまたまかもしれないんですけどもいらっしゃって、やはりキャンベルゼミ中心にいらっしゃったと思います。先輩たちが5人ぐらい江戸時代と明治時代のことをやっていました。漢文学をされている方もお一人。
特にそのお一人、佐藤温(あつし)さんには、とてもお世話になりました。私が何も知らないということを全部受け止めてくださったというか、それを全然否定的に捉えなくて、でも何か特別視するわけでもなく、淡々と、でも優しく本当に手取り足取り教えてくださいました。他にも何人か、親切で温かい先輩たちがいて、とても恵まれてたんです。たまたま運がよかったんだと思います。
松本:先ほど山本さんがおっしゃった、修士の時に研究者になりたいというような気持ちが芽生えてきたというところと、今伺っている専門性の高い研究室に巡り会えたというところが、因果関係がありそうだなと思いました。ご自身で振り返ってみた時の研究室の存在意義など、もう少し伺いたいなと思います。
山本:専門性が育まれる場所は、やはり研究室やゼミです。一人の指導教員の下に指導学生がいる状態をゼミって呼んでたんですけれども、比較文学比較文化研究室全体で見るといろんな専門の人がいて、ちょっとばらばらだったんですけども、でもそれぞれの先生の下に指導学生がいて、それぞれのゼミで本当に専門的な技術を学べる機会があったのと、あと、キャンベルゼミの場合は、キャンベルゼミだけで完結させてはいけないという教えがありました。

他大学の授業にもお邪魔する

山本:これは先生からというよりも、ある先輩からの教えで、他の大学とか、あるいは本郷キャンパスでもいいんですけれども、ゼミの外にどんどん乗り出していきなさい、というアドバイスを入学してすぐにいただきました。私の場合は他の大学が多かったんですけど、自分の所属以外にも大学院の授業とかゼミに参加させていただけるところはどんどん参加していって、専門的な技術を身に付けていくっていうことです。そこで専門性を高めていく。先輩にアドバイスをいただいて、すぐ実行に移しました。なので、ゼミはもちろん一番ホームベースで大事だったんですけど、他の大学の研究室やゼミにも顔を出してお世話になったということがあります。
松本:それは、東大の気質なのですか。
山本:ケース・バイ・ケースだったと思います。あと私が専門にしている日本漢文学が、ちょっと変わった分野でもあるというか。専門にしている人が少ないということですよね。なのでお互いに所属の壁を越えてみんなよく連絡し合ったりしていました。
あとは、日本漢文学は、思想史のほうも勉強しなきゃいけないし、中国文学も勉強しなきゃいけない。一つの学科で対応できない分野なんですよね。そういうこともあって、複数のゼミや研究室みたいなところに顔を出さないといけなかった、という必然性もあったと思います。
岡田:他の大学の具体的なことは伺ってもよろしいんでしょうか。
山本:もちろんです。一つは成城大学の宮﨑修多先生のゼミです。江戸時代の漢詩文がご専門の先生ですが、大学院ゼミに出させていただいていて、発表もさせていただいてたんです。すごく勉強になりました。あと、思想史のほうだと、もともと東大の本郷キャンパスの法学部にいらっしゃったんですけれども、渡辺浩先生という政治思想史の先生が、1回定年退職されて法政大学に移られてたんです。法政大学で大学院ゼミを持たれていて、そこにも駒場の他の先輩の紹介で出させていただいたりしていました。そちらではもう少し思想史のほう、儒学経典を勉強したりしていました。例えばそんな感じです。

日本近世文学会という学会のカラー

岡田:ありがとうございます。例えば他の大学では、国文学を学部からやってきた学生が大学院生になっていたりするわけですよね。
山本:そうですね。
岡田:そこでいろいろとギャップを感じるようなことはありましたか。
山本:実は、国文学をやってきたっていう方と大学院では、それほど直接触れ合ってないかもしれないです。国文でずっと来られた方と一番触れ合ったのは、学会だったと思うんですね。日本近世文学会だったんですけど、そこはほんとに楽しくて全然壁は感じませんでした。日本近世文学会を特別視するのもおかしいかもしれないんですけど、近世の国文の方々はすごく安心できるところがあります。でもそれは思い込みだけかもしれませんが、あまり身構えなくても入っていける感じがしました。もちろん、キャンベル先生や先輩たちに紹介いただいたからですが。
岡田:学会ごとのカラーもなんかやっぱりありますよね。
山本:ありました。すごくあった。近世は、あまりどこから来た人なのかとか問われなかった感じがあったり、すごくフラットに接してくださっていて。それはおそらく私だけじゃないと思うんですよね。例えば特に若い人に対して「若い人のほうが実はいろんなものを見てるよね」という態度で接してくださる先生が多かったりして。
若い人こそ新鮮な目で資料を見てるので、若い人から聞き出せることがきっとあるんじゃないかっていうような感じで接してくださるんですよね。本当にありがたかったです。もちろん知識は全然ないんですが、研究について一緒に話せる先生たち、先輩たちがたくさんいるというのは、すごくありがたかったです。

大学院の指導──「注釈をやりたくないです」と最初は言っていたが......。

岡田:ありがとうございます。次にお聞きしたいのは「大学院時代、指導教員や他の先生に叱られたことはありましたか?」という質問なんですが。
山本:「叱られた」。...よく叱られていました。叱られるというよりは、厳密な指導を受ける感じかなと思います。資料を作ったらここはこうしたほうがいいとか、具体的な指導です。人格とかではなくて、本当に具体的な技術的なことですね。それも一対一でというよりは、授業や研究会の場で、が多かった感じです。学会発表の予行練習とか、あるいは授業のゼミの発表とかの場だったと思うので、一対一の場で何かきつく言われるというよりは、みんないるところでしたし、他の人にも同じような接し方だったと思います。非常に厳しかったですね、でも。
松本:研究手法や、文学研究に対する姿勢に関するものなどはありましたか。研究者はこうあるべきだ、というようなものはありましたか。
山本:それもありました。キャンベル先生から多分一対一で本当に最初の修士1年目の時に、「それは恣意(しい)的だ」ってよく言われてたんです。本当にこう、なんかアメリカで見てきたやり方をやってた時が僕にあって。まず前提とか一般論から入っていくっていうんでしょうか。具体的な話が今は思い浮かべられないんですが。学部の時はとにかくまず用例を集めるとか、資料を確認するということがなされていない場所だったので、とにかく「恣意的だ」「恣意的だ」って最初言われて。それでも叱られたっていう認識はあまりなかったんですけど、それを最初に言ってくださって本当にありがたかったなと思います。
岡田:大学院では最初から結構指導を受ける形だったのか、それともある程度放任されてから、結果に対して指導を受ける形だったでしょうか。
山本:最初から指導です、私の場合は。他の方はわからないんですけど、私の場合は最初からですし、私からも「指導してくれ」みたいなところがあって、押し掛けるじゃないですけど「面談をしてください」みたいな感じでいつも言っていましたので。
岡田:最初にある程度手ほどきを受けて、何か成果を持っていって、さらにそこに意見をもらってというような感じでしょうか。
山本:そうですね。最初はもう体当たりで見よう見まねでやってて。最初は「注釈をやりたくないです」とか「私はやらなくてもいいですか」とか言ってたんですけど。最初の学期、前期とかはそんな感じだったんです。それはキャンベル先生にしか、さすがに言えなかったかなと思うんですけど、キャンベル先生に言ったら「いや、1回やってみたら?」とかいう感じで、「やってみてから考えたらいいんじゃないの」って言われて。やってみたらものすごく面白くてはまってしまったんです。
なので、叱られながらも頭ごなしでは全くなく、全部受け止めていただいた上でというか。この人は単に経験がないから、みたいな感じで。でも、わかってないみたいな感じでは接してこられなくて、「とにかく1回やってみたら?」とか。それは他の先生たちもそんな感じでしたね。とにかく「やってみて」という、ちょっとある意味軽い感じで導き入れてくださって。実際にやってみて問題があったら厳密に指導してくださいますけど。でも本当に、否定されたみたいなことはなくて、単に「これはこうすべき」とかだったのかなと思います。
でも同時に、修論とかの中間発表とかあった時は、「がっかりしました」とかいろいろ言われました。なんか「もっとできると思ってた」とかも。でもそれはみんなのいる前だったので、そういうものかなと思って。
松本:なるほど。
山本:それは指導教員以外の人からでしたが、本当にそのとおりだなとも思ったので、全然気にはならなかったです。
岡田:結構きつい言葉で叱責(しっせき)されて、かえって燃えるという感じですか。
山本:受け入れる準備が整っていた、という感じです。先ほどの2年間の迷いの時期が効いてきたんです。その時期で、もうどん底を味わっていたというか。靴を投げられたりしてたんですよね。いじめみたいなことも受けていましたし。そこでは本当に自分は否定されてたし、自分もいつも怒っていたというか。なんでこんな下に扱われなきゃいけないんだみたいな感じで怒ってたんですけど、それを通り越してきて、いい先輩にも出会って、うまくいく上下関係ってこういうものなんだっていうこともわかってきましたし、ちゃんと指導してくれる先輩とか先生っていうのに幸い出会えたので、自分にも受け入れる準備ができていたんです。
本当に自分ができていないことがわかっている状態だったら、自分はそれを認めて受け入れることができたんですよね。昔はできなかったんですね。大学生の時とかはプライドが高すぎてできてなくて。就職などを経て、できるようになったのかなと思います。
岡田:そういう巡り合わせもありますし、不思議ですよね。次の質問なんですけれども。「大学院時代には無駄だと思ったことで、後から生きてきたことはありますか」です。
松本:あれば、です。
山本:全くないですね。大学院で無駄に思ったことは全くありませんでした。例え懇親会みたいなものでも。そういうのはあまり好きじゃないんです、本当は。人と話したりするのは苦手なんですけど、ある意味研究オタクの集まりだったので、研究の話だけでよかったというか、雑談とかしなくてもよかったので。ですので、とにかく無駄と思えることはなかったんです。
直接の業績にならないってことで言えば、古典籍調査ですが、そういった和本調査も、それこそ一番価値があった体験で、業績にはならなかったかもしれないけど一番研究の栄養になって、今もなっています。今は目録を完成させなきゃいけないみたいな立場になりつつあるので、もちろん今後は業績にもつながっていくということもあるんですけど。

「迷う」ということについて

岡田:ありがとうございます。ここからは事前にご用意した質問を離れて、いろいろお聞きできればと思うんですが、松本さんからはいかがでしょうか。
松本:はい。大変興味深いことをいろいろと伺えて、面白く伺っていたのですけれど、2点ほどあります。
一つ目は、迷ったから出会われたということがすごく印象的でしたが、今の若い学部4年生や修士の1~2年生の中には、1回就職してから戻りたいですとか、研究との向き合い方を今後どうしようかというようなことを、経済的な面も含めて、迷っている人が多くいるように思います。「迷う」ということについてですが、今の若い人はどうしてもマイナスだと思ってしまうのではないかと思うのです。それが、かなりプラスになるというところについて、ぜひ迷っている学生さんに山本さんから投げ掛ける言葉などがあれば、ぜひお願いします。
山本:そうですね。そこが一番大事なところかもしれないですね。迷うのはほんとつらいことです。迷う本人は、ほんとにつらいです。楽しいっていう人はあまりいないと思うんですよね。なので、迷ってる最中はほんとにつらいです、としか言えない感じです。ただその先に何があるかは、やってみないとわからないんですよね。巡り合わせもありますし。
松本:迷わないと、その先にも行けないのだ、というところでしょうか。
山本:確かにそうですね。迷うことはほんとにつらいので、迷わない方向に行きたいと思うのが普通だと思うんです。でも納得がいかないままだと、もったいないかなと思うんです。だから、つらいけど納得がいくまで、経済的にとか、さまざまな要素がそろえば、納得がいくまで迷うということは、必ずプラスに転じると思います。でも、ほんとに迷うことはつらいですよね。
松本:その言葉がすごく背中を押してくれると思います。学生さんに伝わるのではないかなと思います。
山本:あと、卒業後も迷っていいと思いますっていうのを、付け加えたいですね。卒業までに決めなきゃとかではなく。
松本:後でもいいのですかね。
山本:後でも迷い続ける可能性もあるっていうことですね。
松本:私もいまだに迷っていますから。あともう一つは、これは個人的に伺いたいなと思ったのですが、やはり第10回の近世文学会賞をご受賞なさった時のことです。まだ学籍がおありの頃だったと思うのですが。
山本:はい。
松本:その時、私も同世代というか少し上なのですが、かなり衝撃というか、おおーっと思った記憶があります。受賞なさった時にどのようなことをお考えになったか、評価が付いてきたことに対してどう思ったか、など、お伺いできればと思います。もし後進に対して何か受賞して考えたことで、伝えたいことがあれば、ぜひ伺いたいなと思います。
山本:これは全く意外なことでした。先ほどよく叱られてましたっていうのも、叱られてたというよりも褒められたことがなかったっていうか。特にキャンベル先生ですね。あえて褒めないというか。もちろん応援はしていただけるんですけれど。
なので、学会賞の時も褒められてはいないというか。たまたまでしょう的な感じで私は受け取っていました。ほんとに意外で、何も言葉が出なくって。でもいただいた後は、自分は全然できてないんだけれども応援してもらえたっていうのは、すごくありがたかったです。全然まだ私ができないっていうことは自分でわかってたんですけど、とにかく応援しようみたいな感じで、学会の先生たちが推してくださったと。
とにかくそういう先生たちがいたというのは、心の支えにはなったんですよね。でも、たまたまだろうとか、もらえないのが普通、というつもりでやっていくべきだし、後進にもそう伝えたいですね。どういうふうに言葉に表していいかわからないんですが、粛々と自分のことをやっていくだけなので、その途中に応援や声援がもらえたらすごくそれはラッキーなことだけど、応援がない可能性もある、むしろ応援がないのが普通だ、という感じでやっていくべきだ、とは言いたいです。

賞の受賞と、論文を書くということ、論ずることの苦しみ

岡田:学会賞のお話にも少し通ずることかもしれないんですが、論文を書いていくということは、やはり大学院時代から仕事になってくるわけですよね。そこが学部との決定的な違いだと思うんですけど、アメリカの大学はどういう状況なんでしょうか。日本だと短いレポートぐらいしか書かなくて、卒論でようやく少し論文の世界に足を踏み入れるのかなというところだと思うんですけど、山本さんの場合アメリカで、比較文学で卒論を書かれたんですか。
山本:はい。
岡田:それはご自身としては、その後の大学院で論文を書いていかれるということへのステップになっていますか。
山本:大事なご質問ですよね。はい、内容的には全く関係ないんですけれども、書くということでは非常に練習になっていました。アメリカの大学の場合、学部の授業が文系だと必ずレポートというよりはもっと長い論文と呼んだほうがいいような課題がたくさん出ます。分量にしたらそんなに長くはないんですが、私が見てる限り日本の学部だとちょっとレポートは短いイメージがあります。それよりも、もうちょっと長い感じかなと思います。「ペーパー」と呼んでいました。
何か自分の論を立てるということが、アメリカでは必ず求められますので、例えば先行研究をまとめただけだと最低の点数が付くっていう感じす。とにかくオリジナルな論が必要です。それで逆に適当な論になってしまったりすることが多いんですけど。それは置いといて、そういうものを書く練習はすごく積まされてきました。それは高校の時からもうやっています。高校もアメリカだったんです。なぜアメリカに行ったかというと、そういう授業を受けたかったんです。ペーパーを定期的に書いて、自分の論を不完全ながら何か立てて論じるということです。
あと授業中も非常に発言が求められるんですけれども、特に少人数の授業だと発言も論が立ってないといけないというか。何か新しい視点だったりとか矛盾を見つけるとか、先行研究の矛盾でもいいですし、読んでる本文の中の何かでもいいんですけれども、それが求められる環境です。その場ですぐ言葉にして反論されるかもしれないという場所でした。私にとってはいい経験でした。それを求めてアメリカに行ったわけなんですが。
岡田:では、論ずるということ自体は、あまり苦にせずにやっていけるという感じだったんですか。
山本:毎回苦にはなって、ものすごい苦しいんですけれども、なんか癖になるというか。わかんないです。学部時代から身に付いてる何かがあるのかもしれない、とは思います。
とにかく論を立てて書く、そういったものが自分の中には残留していて、それと、日本式と呼んでよければ呼びたい、論を立てるのが目的ではなくて、資料から緻密に作り上げていくというか、とにかく調べまくるみたいな形、論にはならないかもしれないけど徹底的に調べるみたいなやり方というんでしょうか、それが自分の中で混ざり合ってる感じはあるので、それで何かやってる感じです。アメリカ式と日本式が混ざり合っている感じですね。それでいろんなものが自分の中に蓄積されているんだと思います、無意識な部分も含めて。
岡田:「苦しい」という言葉が図らずも出ましたけれども、そこが伺ってみたかったところでした。論文を書くのは苦しみなんですね。
山本:そうですね。毎回苦しいです。1回波に乗ればいいんですけど、地面から持ち上げるのが大変です。1回持ち上がってしまえばいいのかなと思いますけど。
岡田:最初の段階がどうしても苦しいけれども、やっぱり書き上がる頃にはそこに快感を得られるぐらいになってるんでしょうか。
山本:そうでしょうね、多分。でもそういう意味では、学部時代の経験っていうのは、時間がない中でとにかく何かを書かなきゃいけなかったというのが、今になって役立っています。よくない部分もあると思うんですけれども、学部時代にたくさん練習させてもらったような気がします。
岡田:いろいろ掘り下げたくなるところですけど、文学通信さん、研究者以外の目線ではいかがでしょうか。

図書館の書庫の中で、体が軽くなる

文学通信:先ほど山本さんが修士の時に新しい知見が得られて一生やってみたいって思ったということをもう少し具体的にお伺いできますか。
山本:一生やってみたいと思えたことで、先ほどお話した時は、注釈を作る作業とかだったんですけれども、でも一生やりたいっというのは......後付けの部分もありました。本当に一生やりたいと感じたのは、図書館の書庫の中です。これは東大の総合図書館の閉架書庫なんですが、そこに和装本がずらーっと並んでる空間があるんです。和装本で埋め尽くされてる空間があって、「私だけ注釈やらなくていいですか」みたいに言っていた時期に、そこに一人で入っていった時、体がすごく軽くなったというか。何て言うんでしょうね、なんか風が吹いたみたいな感じになって。オカルトは全然信じてないんですけど、なんか体が軽くなって。ずっとこういうところで一生過ごしていたいなと思った瞬間があったんです、その図書館の中で。それが注釈をしてみた快感とも混ざり合ったんだと思うんです。
文学通信:そういう瞬間って、松本さん、岡田さんって何かありましたか、例えば。
松本:体が軽くなるまでは、ちょっとないな、と伺って思っておりました。
岡田:そうですね。なんか多分全く対極的な。
山本:それは、松本さん、岡田さんはほんとに優秀でいらっしゃって、国文学でほんとに頭角を現していってという感じだったと思うので。
岡田:それこそ高校時代とかに古文に出会って、いいなあ、みたいな感じなんですよね、私の入り方は。文章を読んでみて、それがなんか自分に合ってるなというところから来てるんで。
山本:松本先生はいかがです?
松本:そうですね、でもやはり和本調査に行った時に、原本に初めて触れた時の高揚感というか、普段見てないものを見た時の、何かお宝に出会えたというあの感じは、感覚としてはすごくわくわくする部分も半分ありました。ただ、体が軽くなって、ここで一生やっていけるといったほどまでは、ならなかったように思います。それは僕があまり優秀ではなく、研究を続けていけるだろうという自信や見通しがなかったためでしょうが。
山本:いやいや、私は無謀っていうか何もわかってなかったので、その時はそんな感じだったんです。
松本:ただ伺っていて、日本式とおっしゃっていたことについて、多分僕とか岡田さんはかなり日本式なのだろうなと思いました。そういうところの差と言いますか、視点が全然違うことろはすごく面白いですね。
山本:そうですね。
岡田:古典がどうこうというのとは関係ない部分で言えば、研究を一生の仕事にしたいなというふうに思った瞬間というのは、自分で振り返ると、博士に進学して論文書いて、それがクリエイティブな仕事だなというのをちょっと思ったことがあったんですよね。何か新しいものを作りたいなっていうのが。もともと音楽とかで作りたいなと思ってたんですけど、論文を書く時に、自分の意見を表明するのはクリエイティブだなって思ったんですけど、それがもしかしたら自分にとって軽くなった瞬間なのかなと、今思い返しましたが、山本さんは論文を書く作業は、どういうふうに捉えていますか。
山本:どうなんでしょうね。なんか義務感から書いてるから、とにかくやらなきゃいけないみたいな感じでやってるところがあって、あんまり余裕がない。その景色を楽しめないみたいな感じはあるかもしれません。必死に駆け抜けて、もう間に合わないみたいな感じでやる感じもあるので。一番楽しいと思うのは、調べてる時かなと思います。
えっ、ここにこんなことが書いてあった、みたいなのが一番楽しいんだと思います。ですのでまとめるのが苦手な子みたいな感じです。とにかく調べるのが一番楽しいので、和装本がある空間にそういう出会いがたくさんあるんだろうなと感じるから、楽しいというか、体が軽くなるというか、気持ちがふわっと楽になる瞬間があるんだろうと思います。

揖斐高先生の『江戸詩歌論』

岡田:ありがとうございます。このあたりでご用意した質問のほうに戻らせていただきます。「一番最初に買った研究書と、そこから受けた影響を教えてください」ということなのですが。
山本:はい、揖斐高先生の『江戸詩歌論』という分厚い本です。まずここからって思って買った──図書館でまず借りたかもしれないですけど──それを、自分で書き入れをしながら読んだ思い出があります。やはり圧倒的な情報量と資料の博捜っていうのが行われていまして、その幅の広さというか、深さでは、これを超えるものがまだ出てないと今も思います。
実は私は揖斐先生に反論することが多いんですよね。そもそも揖斐先生の姿勢が少し近代文学寄りなところを感じる時があって、それこそ私自身も近現代文学にどっぷり漬かってた時期があります。自分とある意味似ているからこそ、ちょっと離れたほうがいいみたいに感じるからかもしれません。なので意識的に近代文学に起因するような先入観だったり、概念を最初から排除したいという気持ちで私はやってるので、そういう意味では揖斐先生の研究を反面教師みたいにしてるところがあります。ですがそれは一つのスタート地点だけであって、揖斐先生の研究を否定しているとかでは全くなく、すごく乗っかってるんです、逆に。
乗っかっているからこそ、一部反面教師にしているというか。漢文学や近世文学を近代文学からどう切り離して考えて論じることができるのかを、私の中で一つ大きなプロジェクトとして考えてるので、そこは揖斐先生のご研究に乗っかりつつやっている感じです。

忘れ去られたものも含めて、捨てられてきたものも含めて受け止めたい

岡田:ありがとうございます。次に「研究を続けるモチベーションは何ですか」という質問です。先ほど今後ずっと一生やっていく、すでに一生これをしていく仕事だというふうに感じられたというお話もありましたけれども、そのモチベーションについてです。
山本:モチベーションは、やはり資料があるからです。整理されないといけないものがそこにあるからで、紙くずになってしまうんじゃないかというのが怖いです。近世の場合はもちろんご存じのとおり玉石混交と言いますか、全てが宝物ではあるんですけど、本当にいろんな種類の宝物があるというか、なんかごったなものなんですよね。
でも、ごったなものを全部できるだけ理解したいし、拾えるものを拾いたいって思いがあります。なので、全て貴重なものとして捉えてるわけではなくて、忘れ去られたものも含めて、捨てられてきたものも含めて受け止めたいというか、そういう思いがあります。誰かがそれをやったほうがいいかなと思って、自分一人では全然足りないんだけれども、一人でも携わっていたほうがいいという感じで、とにかくそこにものがあるからという感じです。
岡田:知られていない資料を紹介したいという気持ちが大きいですか。
山本:そうですね。やはり興味あるのは、知られてない人物を紹介したいということです。人物単位で考えているので、資料があった時、誰がそれに関わっていたのかということです。書いた人でもいいですし、伝えた人でもいいんですけれども、それを中心に考えていて、どういう人だったのかということです。
岡田:ありがとうございます。では最後に後進へのアドバイスをお願いします。
山本:大学院に進学する時って、どの先生に付くかということがすごく大事だと思うんです。運命の分かれ道というか。それは、ある先生が全ての学生にとっていいわけでは全くなく、自分との相性なので、自分と価値観が合う先生を、単数か複数、一人かもしれないし二人以上かもしれないんですけれども、その出会いを探すということが必要になりますよね。すでに出会ってるかもしれないです。私の場合はまだ出会っていないと感じていたので、探し続けたということになります。そこも迷いの一部になるかもしれないですね。
松本:山本さんは、修士に入る時に研究室訪問はなさったのでしょうか。
山本:しました。受験する前に。
松本:他にもいくつか見て、一番いいところを選ばれたのですか。
山本:少し前にお話しするべきだったのかもしれないですけど、そもそも修士課程に入った時は、修士課程だけ日本でやって、博士課程はアメリカに戻ってやろうと思ってたんです。それは近代の比較文学をやるつもりでしたので。そのこともあって、取りあえず2年やろうと思っていたので、ものすごく慎重に吟味して選んだというわけではなく、パッとキャンベル先生にお会いして決めました。
直感的に、キャンベル先生とは自分と価値観が合うし、アメリカ人でいらっしゃるってこともあって、アメリカの高校と大学でどういう経験をしてきたかってことを何も説明しなくても、すっと理解してくださるし、日本人としてそういう経験をしたことがどういうことなのかというのも全部理解して受け止めてくださるみたいなところがあって。特殊なケースだったかもしれないですね。そういうような先生で、中村真一郎あるいは江戸漢詩みたいなものを指導できる先生って、そんなにいらっしゃらないと思いますので。もちろん事前に相談はしました。
松本:出会いを自分で見つけていかなければいけないというところも、大事な要素になってくるのですね。
山本:ほんとですね。
岡田:今振り返られて、修士に入るまでの2年間というのは、やはり無駄になってないですね。
山本:全く無駄になってないです、本当に。つらかったなという感じでしたけれど。

研究のスタートは早いほうがいい?

岡田:一般的にはスタートが早いほうがいいということは言われていて、修士課程に入ってすぐ論文を書いてみたいな人が結構多いわけですけれども。
山本:多いんですか。
岡田:最近はそういう傾向があると思うんですよね。
山本:そうなんですか。
岡田:それに対して山本さんの場合、2年間のギャップがあって、はたから見るとちょっと遅めのスタートに見えますけど、でもかえってそれが功を奏しているところもあるという感じですよね。
山本:まあ、そうですね。あと私、周りとあんまり比べないんで。といいますか、そもそも全然違う経験をしてきてたりするので、全く考えずにやってきたというか。今もそうですけど。でも論文を書かなきゃっていうのはすごい焦ってました、博士1年の時は。でもキャンベルゼミは、何にもそういうことを言われないゼミだったんです。ある別のゼミから、「論文を早く書けっ」ていうことを先生がいつもおっしゃっているという噂が聞こえてきて、ああどうしようと思って。ヤバイ、と思ってやっていたんですけど。
岡田:論文を早く書かなきゃいけないというのは、そういう基準が何かあったんですか。
山本:「まだ書いてないのか」という感じで、その別のゼミの先生が院生たちを指導しているという噂が聞こえてきたんです。そういうのは、すごいビビっちゃうタイプなんですよ。昔、進研ゼミの漫画でもビビってたんですよね。中学に上がると成績が廊下に張り出されるみたいなのが出てて。それを信じてしまって。で、中学入ってすごい勉強するようになったんですけど(笑)。
論文を早く書かなきゃいけないというは、それは他と比べてというより、自分自身の問題として考えてました。博士1年の秋に日本近世文学会で発表したんですが、すぐに論文化できなくて、多分丸1年かかったのかなと思います。丸1年かけてやっと投稿できたみたいな、博士2年の時に。そういう意味では遅いですね。でも、自分はもうゼロからやってるんだってことは意識していて、そんな早くできないだろうって自分で思っていたので。なので、それぞれのペースがあるということは言えるかなと思います。
岡田:ありがとうございます。結構大事なところを伺いました。
山本:いえいえ。
岡田:やっぱり論文書かなきゃいかんぞという声がもしなかったら、多分ちょっとのんびり......。
山本:なかったらヤバイですね。
岡田:してしまったかもしれないですかね。
山本:はい。その先生が、別のゼミでしたけど言ってくださったことはすごくありがたいことだなと思ってはいます。どなたかが多分言わなきゃいけないことです、指導する側は。
岡田:本当に、きょうはお忙しいところをありがとうございました。かなり深く伺えて、これから研究職を目指そうとする若手にも参考になるお話が伺えたと思います。
松本:面白かったです、ありがとうございました。
山本:ありがとうございました。


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